-1986年春-

 

第六話

 

 一ヶ月後には発売が決定しているシングルのジャケット撮影を終えオレ達はホテルへ戻った。

そういえば最初の日に乗せてもらったあのベンツはどうしたんだろう?まあいい、とにかく東京で暮らしたい街ナンバーワン吉祥寺のホテル住まいだ。スター扱いはまだ続いている。そしてこの生活が1週間程続いたある日、マネジャーから「みんな明日引っ越しだから荷物をまとめておくように」と言われ、少し飽きの来ていたホテルでの何不自由ない生活に別れを告げることとなった。

引っ越し先はスタジオの間近らしいから更に快適になるだろう、オレ達はいよいよこの東京に落ち着きタレント活動を本格的に始める事へ更なる期待感をトランクの中に詰め込んでいた。

マネジャー「着きましたよ、皆さん今日からここで生活してもらいます」


メンバー達「おお~、着いたか!」


八幡「あれえ~、ここスタジオですよ」


門司「おまえなーんも聞いちょらんやったんか?スタジオのすぐ近くち言いよったろうが」


若松「とにかく早よ降りれ、窮屈やろが」

 そう、何故か車はホンダの古くて小さいヤツになっていて、小一時間身動きがとれなかったのだ。

マネジャー「こっちだよ」


全員「え?」


戸畑「ここって、まあちゃんの部屋でしょう?」

 戸畑は早くも東京弁になっている、いやいやそんな事はどうでも良い。まあちゃんとはスタジオのボウヤをやっている若い男の子でスタジオの向かいの築30年は経とうかという古アパートの一部屋で暮らしている。ドラマーはメンバーの中で一番早く仕事が終わるため何度か空き時間に遊びに来ていたのだ。

マネジャー「とにかく、ここでしばらく辛抱してください、あくまでも仮の部屋ですから心配しないで」

 6畳一間に男6(メンバープラスまあちゃん)つまり、一人一畳である。

部屋の中で荷物を解きながら八幡が「そう言えば、あのベンツどうしたんですかねえ」と一番年下のくせに妙に落ち着いた口調で言った。

つづく


-1986年春-

 

第七話

 

 結局、最初の日にオレ達が乗せてもらったベンツは借り物だった事が判明した。薄々分かりかけてた事だったから良いけれど、問題は一人一畳というこのボロアパートだ。所謂タコ部屋じゃないか。しかもその年は記録的な大雪が降った年で、3月とはいえ、布団無しではとてもじゃないが寝られない。結局オレは向かいのスタジオの中にあるソファーをベッドにした。マネジャーの話によると今の生活はあくまでも仮のものだから心配するな、このレコーディングが一段落したら山中湖のリゾートスタジオに合宿に行く事になってるからと。それは良かった、アゴマクラ付きの合宿練習なら、どんと来いだ。

 車に揺られること3時間(もちろんベンツではない、国産の小型車)トンネルを抜けるとそこは雪国だった、目の前には葛飾北斎の絵のような雄大な景色。


「やっぱり、釣り道具持って来るんやったかな~」と誰か。


「この湖に写る富士の山よ!すんばらしい」


「あっこの店でお菓子買って行こう」*九州弁であっことは「あそこ」の事。

 またもやメンバー全員遠足気分である、そして一足先に着いていた下関氏と合流した。彼こそがオレ達を発掘した張本人であり、加藤茶似の熱血男前ディレクターである。

下関「おう、着いたか、早速練習だ。ビシビシ鍛えてやるからな」


オレ「勘弁して下さいよ、楽しくやりましょう、楽しく」


下関「何を言う!まずはドンカマ練習だ、早く用意しろ」


全員「はーい。」

 

 それからまもなく、地獄の特訓が始まった。カチカチカチ、ンカチンカチ、いや違う、カチカチカチ。下関の激が飛ぶ「音符の裏をとれ!ほら戸畑、足が弱い!門司!ダウンピッキングのみでヤレ!」とこんな調子でヘトヘトに疲れてしまったが、待ちに待ったお楽しみの夕食の時間がやってきた。そこでオレ達はまたもや豪快な、かっぺぶりを発揮してしまうこととなる。

 

つづく


-1986年春-

 

第八話

 

 80年代の中頃とはどんな時代であったか振り返ってみたい。忘れてはならないのが世界中を震撼させたチェルノブイリ原発事故。日本ではバブル景気のまっ最中、ジュリアナ東京、アイドル岡田由希子の自殺、そして金妻。

 

 オレ達は下関にしごかれてボロボロになったが、食事の声を聞くと再び元気になった。何故ならば山中湖のそのリゾートスタジオはご主人の作る食事が目玉と言われていたからだ。腹ぺこだった門司とオレは楽器をその場に置いたまま食堂へ向かって走った、・・・するとそこにはテレビでよく見る女性歌手KAが目の前でお茶を飲んでいる。

門司「おーい小倉、あれKAやない?」


オレ「ホントや、どうしようか」


門司「どうしようかってあんた、サイン貰おうや」


オレ「そうやの、やっぱり」

 とかなんとかやってるうちに残りの3人も来た。パニック、我先にと争う。そこへ、ディレクター下関登場。

 

「こら!お前ら、きちんと一列に並べ!」

 

 まるで幼稚園児ではないか、でもちゃっかり、全員サインを貰った。後々思い出すとこれはホントに恥ずかしい。芸能人に免疫が全くなかったとはいえ、オレ達はロックアーティストである。日本の星となるロケンローラーである。ところがニューミュージックだか、歌謡曲だかのポッと出のおねえちゃんを見た瞬間、ただのテレビ小僧と化してしまっていたのだ。

 

 そしてその晩またもや事件が起こった。

 

つづく


-1986年春-

 

第九話

 後練習と称した夜のセッションもやっと終わり誰もが疲れきっていた。もう夜中だ焼酎を一杯飲んでそろそろ寝ようと2階の宿泊所へと引き上げ、ちゃんと眠らなきゃまた明日も朝から鬼コーチのリズム特訓にこたえる、と思いきや何やら八幡が小声で手招きしている。

「こっちこっち!」
「どうしたんか」
「はやくはやく!」

 小窓から隣の宿泊所の窓を覗くと、見える、その、なんだ、ラブの現場が。はっきり言って男として見ないわけにはいかぬ。ていうかもっと見せろ!それはやはりここに合宿に来ているどこかのバンドのメンバーであろう昼間ロビーにいた奴らだ。多分ボーカリストの男とキーボーディストの女の子。八幡と二人で見ていたら「なんしよん」と妙に鼻の利く門司もやって来た。当然、若松も戸畑も...すると、

 

「こらお前ら何してる、早く寝ろ!」と声がした、ディレクター下関だ!やばいみんな隠せ!

 

・・・次の瞬間、特等席は下関に取られていた。

 

 おぉ~とか、だから早く脱がせろ!とか一人で興奮している。オレ達も負けじと小窓に全員頬寄せ合って、ガラスはどんどん曇るし(外は雪)お前ちょっとどけ!とか小競り合いになる、そうこうしてるうちにこっちの様子に気がついたのか、カーテンを閉められてしまった。もうすっかり疲れも眠気も吹っ飛んでしまった男6人は悶々としながら、しょうがない飲み直しだ据え膳食わぬは男の恥とか恥じらいのない女は最低だとか、色事講師下関の講義で朝まで宴は続いた。

 そして次の日から少しみんなのリズムが合ってきたような気がした。

 

つづく


-1986年春-

 

第十話

 

 色んな意味でバンドとしての絆を深めた山中湖での合宿を終え無事東京に戻ってきた。
今度はアルバム用のレコーディングだ。がしかしその前に引っ越しをする事になった。オレ達が合宿に行っている最中、マネジャーは不動産屋巡りをしていたのだ。遂に、今度こそ本当に落ち着ける、願ったり叶ったりである。話によると東京近郊のS市だそうだ、関東初心者の我々はまだ土地勘が無いので良く分からないがこの際何処でも良い、なんと4LDKの庭付き一軒家らしい。


 そう、つまりメンバー全員で一つ屋根の下に暮らし、文字通り同じ釜の飯を食う事になるのだ。もう既に部屋割りはあみだくじで決めている。リーダー若松が一番くじで二階の和室、ベースの門司は隣の洋室に、ドラムス戸畑は一階のLD、その隣の和室がオレ、貧乏くじはキーボード八幡で二階の北向き四畳半の部屋だ。

 

 東京S区の事務所から約2時間、そのNEW LOBBハウスに到着したのは深夜の2時頃だった。予想以上の立派な家にまたオレ達は大騒ぎして早速お隣のご主人に「今何時だと思ってるんだ!」と怒鳴られてしまった。それもその筈、そこは森を切り拓いて作った分譲地で武蔵野の名残を残す静かな新興住宅地だったのだ。まさにご近所さんにとっては青天の霹靂、悪魔の襲来である。深夜の2時過ぎに各部屋からクラッシュやらエディコクランやら、ローリングストーンズやらが大音響で一斉に鳴り出したんじゃ、たまったもんじゃないだろう。

 次の日、出来たばかりのシングルレコードのサンプルをマネジャーがご近所中に配って「怪しいもの達じゃありません、今度デビューする新人バンドです」と挨拶をして回った。しかしこれでもう御近所中の有名人だ。悪いことは出来ない...といいながら悪いことばかりをやることになるのだが。

 

つづく

 

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